うみのなみだ

日常+小説ブログです。

スケッチ

 公園の端で、画家は一人絵筆を運んでいる。日曜日の午後、彼はいつもその風景を切り取っていた。
 老婆がたどたどしく足を運びながらキャンバスをのぞき込んだ。
「すてきな絵だねえ。学生さんかい?
まあまあ、今日は暖かいけれどそんな薄着じゃ風邪をひくよ」
 にっこりと笑いかけた老婆に画家は目もくれずに絵筆を走らせた。池の水面に映る緑が夕陽に色を変えてしまわないうちに描いてしまわなければ。一時も惜しむことなどできない。
 老婆はしばらく筆先の動きを眺めると、ゆっくりとした足取りで散歩に戻った。
 春と共に姿を現したうぐいすの鳴き声が耳の端を通り過ぎる。風の音、鳥たちの羽ばたき。
 しばらくすると、母親に連れられた子供が駆け寄ってきた。
「すごい!おにいさん上手だね。
 あのね、ぼくもうまいんだよ。先生がほめてくれたもん。おかあさんも」
 小さな男の子は、のぞき込むように画家を見た。けれど画家は厳しい顔をそのままにキャンバスから視線をはずしもしなかった。美しいと感じたその気持ちがしぼんでしまう前に描いてしまわなければ。
「健太!いくわよー!」男の子の母親が、ベビーカーを押しながら彼を呼んだ。
「じゃあね。がんばってね」
 にっこり笑って男の子は駆けだした。
 五時を知らせる童謡が園内のあちこちのスピーカーから流れ出した。
 画家の絵は最後の仕上げに入っていた。
「きれいな絵ですね」
 いつのまにか画家の背後に立っていた女がぽつりと言った。
 画家は、振り返ることなく心の中の景色と、キャンバスの上とを見比べた。それからキャンパスの向こうで茜色に染まった景色をみた。そしてまた絵筆を取った。完成には少々の加筆が必要だ。
 女はしばらく無口な人だと画家を眺めていたが、時計に目をやるとすたすたと歩いていった。
 夕陽の端が街影に消えて外灯に明かりがともるころ、彼の絵はようやく完成した。
「できた」
 彼は握り締めていた絵筆をおくと、うーんとのびをしてこわばった体をほぐした。それからゆっくりとあたりを見回した。けれど人影はなく、吹き付けた夕方の冷たい風に体がぞくりと震えた。
 彼はもう一度絵を眺めた。端から端まで、思い通りの作品だった。
「良い絵だ」
 彼は思わず呟いた。
 けれど返ってくるのは風の音だけだった。
 彼は急に、誰かにこの絵を見てもらいたくなった。そこで道具を片づける間も、たばこを一服吸う間もイーゼルの上に絵を乗せたまま、誰かが目に留めてくれるのを待った。
 しかし、昼の間はにぎわいを見せた公園の中はひっそりと静まりかえったままだった。
 彼は少し迷って、二本目のたばこに手を伸ばした。
「この絵、あなたが描いたの」
 少女の声に画家は火をつけようとしていた手を止めて、振り向いた。
「ああそうさ。さっき描き上がったんだ」
「なんだか、寂しい絵ね」
 少女ははっきりと言った。
「なんだって?どうしてそう思う」
 画家はたばこに火をつけてから聞き直した。
「だって、木と池があるばかりの絵じゃない。公園なら、もっと楽しそうでなくちゃ」
「公園だって楽しいばかりじゃないだろう?」
「そうね。でもそれにしたって、この絵の公園は寂しすぎるわ」
 画家は自分の絵を見直した。青々と茂る緑も、水面を水鳥がよこぎる池も、すばらしいできだった。
「どこからも人の声が聞こえてこないもの」
 少女はぽつりと、呟くように言った。
「人の心が見えないわ」
 画家はたばこを靴の底で消すと、少女に向き直った。
「君が言ってるのは、おばさんのやかましい世間話や、老人のおせっかいや、子供のわめき声や、若い女たちの金切り声のことか?」
 画家はポケットから三本目のたばこをとりだした。
「ええ。暖かくて柔らかい言葉のことよ」
「言っちゃあ悪いが、そんなもの絵にすること無いね。君は優しさと、偽善と、嘘をどこで区別するか知ってるか?結局のところ、自分にとって利益がなければ全部一緒さ」
 画家は口端で笑いながら言った。
「そうかしら」
「ちがうかい?最後に判断するのは自分自身だろ」
「じゃあ、利益って何なの?」
「自分に価値があるものさ」
 少女は真っ直ぐに画家を見つめていた。
「おばあさんの言葉は、あなたには価値がないものかしら」
「見ず知らずの奴に世話焼かれたって、迷惑なだけさ。
 だいたいどうして、あいつらは他人に口出しするのか、理解できないね」
「簡単だわ。おばあさんの言葉の価値も、その言葉の理由も」
 あたりはすっかり夜が訪れ、少女と画家は外灯の下で闇にぽっかりと浮いているようだった。
「それはなんだ?」
「愛よ」
「あい?」
 画家はおうむ返しに言うと、声を立てて笑った。
「あなたがどう思っても仕方がないけれど、わたしはそれが愛であると信じたいわ。それに、愛のない風景なんて寂しいだけだよ」
「君が信じるのはかまわないけどね。
 愛なんて、信じるべきものじゃないよ」
 少女は微笑んで応えた。
「それでも信じなければ、生きることがつまらないことになってしまうわ」
 画家は、煙を吐き出すと少女から目を離した。
「愛以外にも生きる理由はあるさ」
「それでも愛は必要だわ」
「どうだか。
 愛を信じるなんて考えなくても、俺らは生きてるし。時間は流れるよ。生きる時間って言うのは、思っているよりずっと早く流れてるんだ」
 空の端に星がちらついていた。上を見上げれば、ほっそりとした三日月が闇空に存在感を増している。
「だからこそ、認めなくちゃ。愛すること、愛されることを。気がつけばいつだって、どこにだって愛は存在してる。ねえ、そんな寂しい絵ばかりじゃなくて、もっと求めればいいのよ。
 疑わないで。疑えば愛は見えなくなる。自分で信じて捕まえなきゃ、だめなのよ」
 少女はまた、微笑んだ。そしてすっと目を閉じた。
 不思議な少女の言葉につられるように画家もゆっくりと目を閉じた。するとありありとしたひとつの情景が浮かび上がった。昔、まだ自分が小さな世界で生きていた頃。
 誰も疑うことなく、誰も拒絶することなく、ただ愛されるままに生きていた頃がたしかにあった。愛というものも知らぬままに愛していた頃があった。
 どうして忘れていたんだろう。
 愛はいつも、どんなときだってそばにあったのに。
 どうして拒絶してしまったんだろう。愛すること、愛されること。
 どうして疑いの目で、愛を失うようになったのだろう。
「怖がらないで」少女の声が、聞こえた。
 すると何かがのようにすとんと心に落ち着いていった。
 簡単なことだと少女は言った。そう、簡単なことなんだ。 
 はっと目を開くと、三日月が星を従えて南の空高く輝いていた。
「さむっ」
 ぶるぶると体が震え出す。
 作品を仕上げた安堵からか、しゃがみ込んだままうたた寝してしまったらしい。
「風邪ひいちゃうな」
 もっと着てくれば良かった、と思いながらうーんと伸びを一つ。イーゼルには描きかけの絵が立てられたままだった。
 冷たい夜風に身を震わせると、画家は帰り支度にイーゼルをたたみ始めた。
「あら。絵、完成したんですか?」
 声に振り返ると、一人の若い女が立っていた。
「こんばんわ」女は笑顔で言った。
 画家は小さく会釈をして返した。
「見てもかまいませんか?」
「ええ、どうぞ」
 女はキャンバスの前に立つと街頭の明かりを頼りにじっくりと絵を見渡した。
「夕方に見たのとずいぶん印象が違いますね」
「そうですか?いや、あとのあとちょっと構図を変えたんです」
 画家はイーゼルとしまうと、女に向き直った。スーツを着て、手にはスーパーの袋をさげているが、年は自分と変わらないようだった。
「前のも静かで良いなあと思ってたんですけど、こっちのほうがなんだか暖かいですね。私のこの公園のイメージにぴったり。
 いや、あの、勝手に意見なんか言ってごめんなさい」
 恐縮そうに女はキャンバスを画家に渡した。
「いいえ。うれしいです」
 画家は微笑んでキャンバスを受け取った。と、いっそう冷たい夜風が吹いて、彼は盛大にくしゃみをした。
「あら、そんなに薄着じゃ風邪ひいちゃいますよ」
「ええ。もう引き上げようとしてたんです」
 キャンバスをしまうと、画家は道具を担いで立ち上がった。
「引き留めちゃったかしら。ごめんなさい」
「いいえ。実は作品が完成したのに誰にも見てもらえずに悲しんでいたんです。あなたに見ていただけて良かったです」
 照れ隠しのように画家は笑った。つられて、女も笑った。
「どちらに向かわれます?」
 画家の問いに、駅だと女は答えた。
「じゃあ、こんな時間ですし、送りますよ。俺も駅まで行くので」