うみのなみだ

日常+小説ブログです。

 1.始まり

 高校三年生の冬休みがやってきてしまった。
 吐く息が真っ白になる早朝八時。マフラーをしっかりと首に巻きつけて、私は公民館に向かう。徒歩五分にある公民館の図書室は静かに受験勉強に没頭するには絶好の場所だった。
「おはようございます。図書室の整理券ください」
 もう顔見知りになった受付のお爺さんに声をかけると、「9」とかかれたプラスチックの板切れが差し出された。
「ありがとうございます」
 階段を上がって二階の一番奥にある図書室にむかう。
 ひっそりとした扉の向こうは図書室とは名ばかりの小さな会議室。壁際に並んだ書架を背に、中央に並べられた机にはぎゅうぎゅうに座っても14人までしか座れない。そんな場所にもかかわらずこの時期どっと押し寄せる身寄りの無い受験生の波に、この公民館は公平な先着順の制度をとっている。さっき受け取った番号札はいつもきっちり八時に配られ、1から14のカードを持っていなければ席に座ることはできないのだ。
 これまでいつも4、5番だったのに、今日は誰か早くきたのかしら。
 席についてこちらもすっかり顔なじみになった戦友たちを見回す。と、昨日までは見かけなかった顔と目が会った。
 学校のクラスメイトである柏田君はひょいっと首をすくめるようにして会釈した。つられて首を振って挨拶するが、突然のことに視線が泳いでしまった。
 もともとクラスの男子とあまり関わりをもつ方でもない上、彼は男子の中でも一風変わった存在だった。ぶらっと一人で出て行ったかと思うと誰とも知らない仲間たちと遊んでいたり、かと思うと難しい顔をして文庫本を読みふけっていたりと、飄々としていて掴みどころがない。かといって男子たちと距離をおくわけでもなく、むしろ大騒ぎの中心にはいつも姿を見かけた。
 そういえば家が近かったかもしれないと思い当たって、彼がここにいることに納得するといつものように参考書を広げた。
 あとはただ、一心不乱にページを追うだけだった。
 まったくもって無味乾燥な行為だけれど、投げ出すわけには行かないのだ。むしろ、こんなことに負けて入られない。腹を決めてペンを走らせるままに時間は過ぎていく。あっというまに四時間が過ぎて、お昼の鐘が会館の中に響いた。
「うーん」
 ばらばらと席を立ち始める気配に手を止めて固まった上半身をぐんと伸ばす。規則があるわけでもなしに、鐘とともに昼休みを取ることがこの部屋の習慣になっていた。
 いつもどおりかばんの中からお弁当箱を取り出して一階のロビーに向かう。テレビも置いてあるそこでゆっくり一時間の休憩を取るのがいつものやりかただった。

「楠本さん」
 ロビーのソファに座ってお弁当を広げたところで、声を掛けられてしまった。
「びっくりしたよ。楠本さんってこの辺だっけ」
 言葉も終わらぬままに彼は当然のように向かいのソファに腰を落とした。手にはコンビニの袋がぶら下がっている。
「徒歩五分なの。柏田君こそ」
「まあね。いつもは区立図書館に行ってたんだけどさ。ちょっと来てみたんだ」
 自転車で五分のこの公民館は小学生のころからの遊び場だったと彼は付け加えた。
「図書館ってなんかイマイチだったんだよね」
「私も」
 以前図書館も利用したことがあったが、広すぎるのと人の気配が多すぎるのがいやでやめたのだ。
「ここは狭っ苦しくて良いね。落ち着く」
「そうね」
 その後も私たちはたわいの無いお喋りをしてお昼休憩をつぶした。これまで教室でほとんど話したことが無いというのに、彼の語り口は穏やかで、少しも構えたところがなかった。人懐っこい表情をくるくると変えながら話す彼に、私の口も引きずられるようによどみなく言葉をつむいだ。
 たった一時間の会話でなんとなく柏田君の「不思議さ」が理解できた。まるでしなやかに風に揺れる柳のような柔らかさが彼のすばらしさだった。
 次の日も、次の日も彼は公民館に現れ、私たちは二人で昼食をとった。
「あのさ、ここのこれ、教えてくれない?」
 時々彼は参考書を片手にロビーに下りてきた。いつも補修に呼び出されていた彼がする質問は単純なものが多かったけれど、一度説明したことはあっという間に理解した。勉強は二の次にしてきたからどうも最初の方がわかってない、と彼は一度ぼやくように言った。その台詞が嘘や見栄でない事は容易に確信がもてた。
「ありがと。そういえばさ」
 一通り説明を聞くと、彼は次々に楽しい台詞をつむいでいく。これまで彼が一番にしてきた事の素晴らしい経験を、生き生きと語っていく。
 私はうなずきと相槌に追われながらぽつんと取り残されていくのだ。
 そう感じた瞬間から、彼との楽しいお昼休憩は苦しみを伴うものになった。

「楠本さんってあったまいいなあ!」
 いつものように数学の演習問題を聞いてきた彼は解法の説明が終わると、感激したように言った。
「そんなことないよ」
「いや、さすがだって。俺絶対そんな方法思い浮かばなかった」
 ふんふん、と上機嫌でいう彼の言葉に私は小さくなってしまう。こんなことできたって、しょうがない。
「そういえば、楠本さんどこ受けんの」
「え。えっと、多分XX大かな」
 とりあえずの目標校に柏田君は本当に目を丸くして驚いてくれた。
「すごいね。やっぱちがうなあ」
「そんなことないって」
 私はまた小さくなった。
「そんなことなくないよ。俺さ、最初にここで楠本さんに会ったときびびったもん。
 俺今までまじめに勉強したこと無かったからさ、楠本さんをお手本にしようとしたの。
 それで、すごい集中してやったんだけどすぐ息切れちゃってさ。ふっと顔あげると楠本さんがまだやってるわけ。で、またしばらくして顔上げるとずーっと同じ姿勢でやっててさ。マジで尊敬したよ」
 臆面もなくそういった彼は懐かしそうに首を縦に振った。
「それにわかんないとこ聞くとすぐ教えてくれるじゃん。しかもすっごい解り易くさ。それって才能だよ。俺が保障するよ」
「そんなことないって」
「俺が保障するって言ってんでしょ。信用してよ」
 あっけらかんと言った顔が急に真面目になる。ぐぐっと睨むような視線に負けて、私は小さく「ありがとう」と呟いた。
「そうそう。それでいいの」
 勝ち誇ったような笑顔に私はまた負けたなあ、と思った。
 いつだって一足先に答えを見つけられちゃってる。見透かされてるみたいだ。
「まいったな」
 ぽつんと呟いてみたけれど、満更じゃなく胸の中があったかかった。
 明日の朝八時、寒さを掻き分けて進む足取りはきっと今日よりも軽いに決まってる。