うみのなみだ

日常+小説ブログです。

 4.それだけは勘弁してください

 誰も知らない世界にいけたらいいなと夢想した。夢想しながら歩いている自分はきっと夢遊病患者か精神病患者のようにうつろな目をしているだろう。ショーウィンドーの前を通り過ぎながら、そちらを見まいと目をそむけた。
 足音が自分を追ってくる。自分の足音だ。そうだ、何も怖くない。
 言い聞かせる。一つ一つ、目に映るものすべてに対して理由を確認していく。油断するとすべての部品がばらばらになって、すぐさま崩れていくのだ。私はそれをとても恐れていた。
 頭の中で思考の渦が巻く。向かってくる人とは違った場所を歩かなくてはいけない、ぶつかってしまうから。犬が来たら怯えてはいけない、吠えられるから。自転車が来たら歩道の端に寄らなければいけない、邪魔になるから。家先の鉢植えは蹴飛ばしてはいけない、人のものだから。それから、車道に飛び出してはいけない、死んでしまうから。
 頭の中に小学校の先生が現れて、一つづつ注意を読み上げる。無機質で、硬くて、無愛想な声。大嫌いだった小学校二年生のときの担任の先生だった。ヒステリーで、いつも早口で怒った。痩せてがりがりの体と、メガネから、こっそりロッテンマイヤーさんと呼んでいた。けれど自分はハイジではなかった。クララでもない。一番好きだったのはペーターだ。草笛を吹いてくれる。
 家に続く最後の角に差し掛かった。T字路を曲がれば、数歩先が玄関だった。私はうつむいてアスファルトだけを視界にすると、少し速度を上げてT字路を抜けた。道路は面倒だったが、家の中はもっと面倒だと知っていた。
 まっすぐ行けば神社がある。私は早足のまま神社を目指した。大きな公園の端に、まるで土地が余ったからしかたなく付け足したかのように、神社はひっそりとあった。境内は小さく、鳥居と狛犬とおみくじがあるきりだった。訪れる人も少ない。私は手水場の近くにあるベンチが好きだった。そこに座っていると、面倒なことは起こらなかった。
 神社はいつも通り、人気もなく静かだった。私はベンチに座ると重たいかばんを隣に置き、空を見上げた。空は無垢だった。どんなに大気汚染が進んでも、空ほど無垢なものはこの世にないだろう。海も近いけれど、夜にきく波音は恐怖だった。もし耳が聞こえなければ、海も無垢だと感じられるだろう。
 かばんの中から、コンビニで万引きしてきた飴を取り出した。甘酸っぱい味。美味しくもなければ不味くもない。美味しいものが食べたいな、と思った。ドラえもんの道具にそういうものはなかったかしら。なんでも美味しくなるような、魔法の道具。あったかもしれないし、ないかもしれない。どうでもよかった。万引きと同じくらい、どうでもよかった。
 続けて飴を食べた。食べきってしまえば、証拠はなくなる。いつもそうした。舌がざらざらしてしびれてくると、奥歯で噛み砕いて飲み込んだ。
 かばんから、漫画を取り出した。クラスの女の子の机から持ってきたものだった。いまごろ泣いているかもしれない。いつもそうだ。ちょっと何かあるとすぐ泣くんだ。私はそういう態度は嫌いだった。涙なんて出ないようにしてやりたかった。
 私も買っている漫画なので、話はよくわかった。片思いの男の子が転校するかも、というところからだった。ちゃんと覚えていた。くだらない、と知っていた。だけど、読まずにはいられない。テレビのバラエティだって、くだらないと知っている。だけど、見ずにはいられない。早く病名がつけばいいのに、と思った。私ならこうつける、マエナラエ症候群。号令がかかると、何も考えなくったって行動してしまうんだ。そういう衝動を、私は飼っている。それも知っている。
 なるべくゆっくり漫画を読んだ。一コマづつ丁寧に眺め、気になった台詞は声に出してつぶやいた。そうしておかないと、ちゃんと後で感想がいえないと思った。五ページ目のタカシ、そんなに好きなら、別れようぜ。陳腐、だけどたぶんかっこいいんだ。十二ページ目のカオリの台詞、わたし恋なんかしてない、そんなの知らない。陳腐、だけど多分泣ける。
 漫画を読むのはとても時間がかかった。夕方になり、風が冷たくなった。五時を知らせる童謡が街頭スピーカーから流れる。足音がして私はびくりと顔を上げた。
 おじいさんが足を引きずりながら参道をまっすぐに歩いていく。手水をし、私の前を横切った。まるで私のことは見えていないように、まっすぐに小さな賽銭箱に向かい、きちんとした手順でお参りした。深々とお辞儀をして、再びおじいさんは参道を引き返した。引きずった足音が前を横切る。漫画に目を落としながら、私はじっとその気配が消え去るのを待った。しかしおじいさんの気配は消えなかった。私のすぐ前でじっと立ち止まっているようだった。私は緊張した。漫画を持つ手が振るえる。何かおかしいだろうか。今日は学校をサボっているわけじゃないし、ここはちゃんとしたベンチだ。おかしくなんかない。大丈夫。じいさんがちょっと変なやつってだけだ。
 私は必死に頭の中で言葉を並べながら、漫画に意識を集中しようと試みた。陳腐な台詞を読み返してみる。すこし落ち着いた。けれどおじいさんの気配は立ち去らなかった。私は苛立ちを覚え始めた。緊張が再び高まり、怒りへと移行した。それはごく自然な回路だった。私たちが共通して持っている回路だった。
 私は決意しておじいさんをにらみつけようと、顔を上げた。
 おじいさんは、地面に立てひざをつくようにしてうずくまっていた。私のことなんか見ていない。苦しそうな呼吸が漏れていることに初めて私は気がついた。どうしよう。発作だろうか。私はありあわせの知識からその言葉を思い浮かべた。発作。発作ってなんだろう。とにかく苦しいものらしかった。私は発見者として、なにかしなければいけなかった。
 何をすればいいのだろう。
 考え始めた私はすぐにパニックに陥った。選択肢は思いつかなかった。全身が緊張のために重い鎖につながれたようだった。喉とて例外でない。声が出なかった。誰か呼ばなければいけない、と考え付いたが、思うように声がでなかった。ただ唇からひゅうひゅうと風が漏れて、それはおじいさんの荒い呼吸とよく似ていた。
 うずくまっていたおじいさんが、ころんと転がった。バランスを失ったぬいぐるみのように、簡単で静かに。おじいさんの荒い息がやんでいた。
 全身がいっそう重たい鎖に絡みとられた。ひゅうひゅうと口から漏れる息の音が世界のすべてのように耳の中でこだました。
 死んだんだ。
 私は知った。理解した。おじいさんは不自然な寝姿勢で横たわっていた。
 かばんをつかむと、私は駆け出した。死から遠ざかろうと、一生懸命に走った。行過ぎたT字路に戻った。だけどまだ私は玄関に向かえなかった。まっすぐにT字路を通り抜ける。住宅街をただまっすぐに突き抜けた。突き当りが来ると、右に折れた。つぎの突き当たりは左へ、それから右へ、そして左へ。規則的に私は進み続けた。疲れて走れなくなっても、私はできるだけ早足で遠ざかり続けた。
 しかし逃げ切れはしないということも、わかっていた。