うみのなみだ

日常+小説ブログです。

5.336

 年が明けて、一月。世間はすっかりお正月気分で、気の抜けた浮かれた雰囲気だけがぶらぶらと町中をうろついていた。けれど私はとてもじゃないけどお正月だからといって浮かれているわけにもいかなかった。センター試験まで、あと二週間ばかり。時間の価値は高騰するばかりだった。
 三が日の間はさすがに公民館も図書館もお休みで、私は集中できる勉強場所を求めて家の近所をふらふらと歩きまわった。落ち着いた喫茶店、人気のないファーストフード店、すこし近所を散策してまわれば、場所はいくらでも見つかった。一番集中できたのは漫画喫茶で、だけど休憩のつもりでつい漫画を手にとってしまうのが問題だった。
 家で勉強すればいいじゃないか、と両親と弟は口々に言うけれど、お正月テレビが流れる居間の隣にある私の部屋はあまりいい環境じゃなかった。それに、和やかに笑い声をあげる家族に文句を言ってしまいそうになることも、私はいやだった。
 今日はどこに行こうか。三日目になると、さすがに行く場所が限られてきた。何度も同じ店に行くのは気が引けたし、かといってあまり遠くまで出かけるのは時間の無駄だ。やっぱり漫画喫茶にしよう。休憩に漫画を読まないように気をつければいい。
 私は駅前の漫画喫茶に向けて歩き出した。冬の空気がぴりりと頬に冷たく、気持ちが引き締まる。自転車で行けばすぐだけれど、歩くほうが気持ちが良かった。
 中空へと上り詰めつつある太陽が柔らかい日差しを贈ってくれる。住宅地は静かで、庭先の花々や小鳥たちの気配がアスファルトの道路を彩ってくれていた。それは幸せの欠片だった。
「あれ。楠本さん?」
「柏田君。こんにちわ。偶然ね」
 駅前のスクランブル交差点で、自転車に乗った柏田君に出会った。彼も受験生らしく、大きなかばんを持っていた。年末に別れたときはもう勉強なんか嫌だとぼやいていたくせに、しっかり続けているらしい。
「ちゃんと勉強してるみたいね。てっきり投げ出しちゃったのかと思ったわ」
「そう言われるとな。だって愚痴りたくもなるさ」
 スクランブル交差点の待ち時間は長い。いつもより若干少なめの交通量を横目に観ながら、私たちは車の音に負けないように言葉を交し合った。
「今日はこれから? どこに行くの?」
「そこの漫画喫茶。案外集中できるの。明日からはまた公民館に戻るけどね」
「へえ。漫画喫茶か、そりゃ盲点だった」
「柏田君はどこで勉強してたの?」
「クラブ」
「あんなうるさいところで勉強できるの? すごい」
 驚いて声を弾ませた私に、柏田君は笑った。笑うとくしゃりと顔がゆがむところが、柏田君の魅力の一つだなと私は覚え始めている。
「そうじゃなくて。開店までの時間、使わせてもらってるんだ」
 おじさんの店だから、と彼は付け加えた。
 信号がとうとう青になった。
「よかったら楠本さんも来ない? タダだし、昼飯もつくぜ」
「ほんと? でもいいのかしら。勝手にお邪魔しても」
「大丈夫だよ。どうせ夕方までは誰もこないし。それにちょっと教えてほしいとこもあったりするし」
 そういうことね、と私は笑った。
「駅の向こうだから、よかったら乗りなよ」
 そういうわけで、私は彼の自転車の後ろに乗り、クラブへと運ばれた。二人乗りは少しの緊張と、信頼を経験させる。駅向こうの普段は避けて通っている歓楽街の端に、ひっそりとその店はあった。クラブ黒鳥、とデザインされた看板が地下へと伸びる階段口に掲げられている。
 自転車を置くと柏田君は階段を下りて、シャッターの下ろされた入り口を難なく鍵で開けた。大きくて重たいドアをくぐると、様々な黒に飾られた空間があった。
「ちょっと待ってて。空調入れるから。酒と煙草くさくてごめん」
 手際よく店内に明かりを灯すと、柏田君は奥へ向かった。私は初めて入る空間にきょろきょろと辺りを見回し、自分の居場所を探した。
「あ、ソファじゃなくてカウンターがいいよ。そっちの机だと低すぎるんだ」
 かばんを置いて座ろうとしていた私を奥から声が引きとめた。
「何か飲む?」
「ありがとう。とりあえず大丈夫」
 カウンターの向こうにいる柏田君はさりげなく、店の雰囲気に溶け込んでいた。普段から遊びに来てるのかしら。彼がダンスフロアの人ごみにたたずんでいる様子を思い浮かべてみた。それは、とても自然なものに思えた。
 とにもかくにも、私は頭を切り替えて勉強を始めた。彼も一つ離れたイスで勉強用具を広げ、しばらく静かな時間が流れた。
 十二時を回ると、厨房で柏田君がチャーハンを作ってくれた。とても手馴れた手つきで、しかも美味しかった。ご飯を食べながら私たちは年末年始の、顔をあわせなかった数日間のことを、まるで重大ニュースばかりであるかのように話し続けた。
 それから、柏田君の質問を聞いて、解るものは教えた。どんどんレベルを上げている彼の質問には、即答できないものが増えてきていた。解らないものは二人であれこれと言いながら理解した。
 あっという間に、時間が過ぎていく。
「そろそろ、かな。もう店の人たちが来て仕込みを始めるころだ」
 四時を回ったところで、私たちは勉強用具を片付けた。それからジュースを飲んで、またおしゃべりをした。お店の人がくると、柏田君は鍵を返し、私はお礼を言った。柏田君のおじさんは、笑うと甥にそっくりだった。
「ねえ。楠本さん」
 帰りがけ、今度は自転車を引いて二人で歩きながら、柏田君は唐突に切り出した。
「志望校、こないだ聞いたXX大から変わってないよね?」
「うん。センター試験次第だけれどね」
「俺も受けようかと思うんだ。XX大」
 センターが上手くいけばだけどさ。と彼は笑って付け加えた。
「でも。急にどうして? 前は違うとこ目指してたじゃない。だって、一人暮らししたいんでしょ?」
 どうしても一人暮らしがしたいから、地方の国立大を目指したい、という話を私は覚えていた。
「おじさんがさ、もし入れたら一人暮らしの面倒は見てやるって言ってくれたんだ。それに」
 私たちはスクランブル交差点に戻ってきていた。長い赤信号につかまる。言葉を切って、彼は私を振り向いた。
「こうやって楠本さんと毎日話したりするのが楽しいなあ、と思って」
「なに、それ」
 急に言われて、私は目を伏せた。
「そうじゃない? 毎日こうやって、365日一緒にいれたらいいなあと、思ったんだけど」
「そんなの……」
 私は言葉に詰まった。
「そりゃ、そうだけど……」
「よかった。まあ、センター次第だけどね。だから頑張るよ、俺」
 笑ったくしゃくしゃの顔のまま、彼は小さくコブシをあげてみせた。
「センター次第だからね」
 私たちは笑って、顔を見合わせた。
「それから、今年は366日だよ」
 悔し紛れに私はつぶやいた。彼は律儀に振り返り、にっこりと笑った。
「じゃあ一日お得だ」
 何が、と聞くと、幸せがと返してきた。
 柏田君には勝てないな。私は声を上げて笑った。