うみのなみだ

日常+小説ブログです。

 7.負けられん

 交差点で早瀬に並んだ。「よ」とハンドルから片手をあげて、一瞬だけ顔を見る。つまらさなそうに「おはよ」と声が返ってくる。視線を信号機に戻して、青になる瞬間を待つ。対角の信号機が変わって、3、2、1。スタート。ペダルに掛けた足を思い切り踏み込む。四車線道路を同じ制服を着た一群が流れるように渡っていく。毎朝、毎朝。
 スタートで先頭に立った。早瀬がぴったりと俺の後ろについているのが、解る。なんとなく。だけど、ほとんど確信に近い。コンビニの角を曲がって、速度を上げる。直線の先には見上げるばかりの坂道。ここでスピードを緩めると、頂上まで登り切ることができない。道路には人気も車もない。この道をあがった先にあるのは俺が通う高校だけで、この時間は自転車で通う生徒以外は見かけなかった。だから、なのかそれともそれが原因なのか、サーキットのように自転車が駆け抜けていく。
 坂道にかかるとペダルがぐっと重くなる。まだだ、まだ、まだ。自分のペースを確認するように踏み込む。歩くと二十五分もかかる上り坂を頂上まで登り切るのは、コツがいる。スピードでもないし、力でもない。同じように漕いでいても、登れないときは絶対に登れない。三年間掛けて、毎日挑戦してきて、そういう結論になった。ダメなときはダメ。問題は、ダメなときに落ち込まないこと。次の日に登れれば、それでいい。それから、登れたときは素直に喜ぶこと。
 こんな挑戦をしているやつは、そんなに多くない。登り始めてそうそうに自転車を降りて歩くやつが大半だ。力一杯漕いだってなんの得にもならないのだから。
 息がつまる。ぐっと踏み込んだ足に体重を乗せる。ペダルが回らない。ハンドルをきつく掴む。あと少し。ふっと息が漏れて、次の一歩が踏み込めなかった。タイヤがアスファルトに張り付く。だめだ。今日はダメ。おとなしく地面に足をついて自転車を降りた。後ろをちらりと振り返る。その視線を避けるように早瀬が前に出た。「お」と短い声で背中を送る。最後の十メートルを漕ぎきって、平らになった前方で悠々と早瀬はスピードを上げた。校門まであと四十メートルもない。自転車を引きながら視線でその背中を追う。
 早瀬とは今年始めて同じクラスになった。それぞれ元のクラスメイトとつるんでいるせいか、あまり仲がよいとは言えない。それでも三年間、同じ坂をほぼ同じ時刻に、同じくらいの速さと熱意で登ってきたことは大きかった。直接確認したことはないけれど、早瀬も俺も毎朝の登校に少なからずこだわりを持っていて、かつそのこだわりをひた隠しにしている節があった。たしかに受験生にもなって上り坂にムキになっているのは、やっぱりどうかと思う。
 息を吸い込んで全身の緊張をほぐした。後ろを振り返る。同じように力の限り登ってくる生徒が数人。その後ろにはだらだらと楽しそうに会話しながら登ってくる一群が見える。その向こうには、やたらと見晴らしの良い景色。傾斜がなくなったところで再び自転車に乗った。校門まであと少し。毎日、毎朝、続けてきた。「おはよーざいまーす」正門に立つ教諭に声を上げる。自転車置き場に向かって、少し下り坂。何人かの生徒とあいさつを投げたり、投げられたり。朝の空気。自転車をおいた早瀬とすれ違った。また目だけで確認する。並んだ自転車の隙間に入り込んで鍵をかけ、かごに入れたカバンを手に取った。そこでふと、あと数ヶ月でこの作業から完全に解放されることが、急に解った。あと数ヶ月で俺は自転車をマジになって漕がなくなるし、早瀬ともすれ違わなくなるし、自転車をここに置くことも無くなるんだ。
 当然だ。そんなことあたりまえに解っていて、だからこそ俺は進路調査に悩んだり、志望大学を選んだり、受験勉強を始めたりしているんだ。あと数ヶ月で俺は自転車を漕がなくなる変わりにどこかのキャンパスに向かって電車に乗るし、ひょっとしたら一人暮らしを始めるかもしれない。毎朝決まった時間に起きなくても良くなるかもしれないし、上履きに履き替えたりしなくてよくなる。
 あたりまえのことに気づき直しただけなのに、一気に不安になった。
 何でもなく続けてきた毎日が急に終わるということ。
 早瀬は気づいているだろうか。自転車を本気で漕がなくなることに。お互いの健闘を視線だけで確認しなくなることに。たぶん、早瀬にそんなことを聞くタイミングはこないし、俺は答えを知りたい訳じゃない。ただ気づいてしまったからには、無心になって頂上を目指すことができなくなりはしないかと、心細くなった。
 変わらずにいられたらと願うけど、立ち止まったままでいることはきっとできない。
 階段を上がり、教室が近づく。いつもの机に向かっていく。カバンを降ろすと、息が漏れた。
「おはよ、今日の数学の宿題やった?」
 ああ、やった。見るなら昼飯なー。
 笑った。スイッチが入ったように、気持ちが落ち着く。今すぐに終わりが来る訳じゃない。時間はゆっくりと流れていく。そう、落ち着くんだ。流されて見失わないように。流れの先を見据えて、舵を切るんだ。
 斜め向かいの席で、早瀬は窓の向こうを見ている。
 風が吹いて、ノートの端をぱらぱらと鳴らす。